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1992~2000年

第9章 優良企業への復帰とグローバル化の推進、そしてBFS自主回収問題

第9章 優良企業への復帰とグローバル化の推進、そしてBFS自主回収問題 1992~2000

第2節 タイヤ事業のグローバル展開の加速

第1話 自動車メーカーのグローバル化の進展と当社の対応

1990年代に入り、自動車メーカーは国内外を問わず、グローバルな規模で徹底的な合理化を進めました。そうした変貌に対応するため、1994年にタイヤ直需と化工品直需を合体し、当社の強みである自動車部品総合メーカーとしての機動力を強化しました。翌年、「グローバル・サポートセンター」を設置し、世界各地域で市場別に取り組んでいた体制を、グループ連結ベースで最適に進められる体制に改めました。併せて、地域間の調整機関として「グローバルOEビジネスコミッティー」を設けました。このような素早いグローバル対応施策は、国内外の自動車メーカーから高く評価されました。

第2話 グローバル技術開発体制の整備と「グローバル新商品」の開発

技術センターの開発体制の整備

1990年代後半には、ブリヂストングループのタイヤは60%が海外で生産され、海外での販売量は約80%に及んでいました。こうした中、当社グループでは世界を3地域に分け、東京(小平市)、アクロン、ローマの3カ所の技術センターが、それぞれの地域で責任を持つ技術開発体制を構築しました。東京は、世界における技術のコントロールタワー機能も担うことになりました。

プルービンググラウンドの整備

当社グループでは、1990年前後から、当社技術のグローバルな開発体制を支える柱の一つとなっているプルービンググラウンド(テストコース)を世界各地で新設または拡充していきました。
1989年、栃木県黒磯(現、那須塩原市)のプルービンググラウンドの拡張を皮切りに、北海道・士別、タイ・ノンケー、ブラジル・サンペドロに新設し、米国・テキサス州フォートストックトン、イタリア・ローマでも拡張しました。これらの施設とオハイオ州コロンビア、メキシコ・アクーニャを加えた、世界で計8カ所のプルービンググラウンドを整えることで、世界各地域の市場特性に合ったタイヤの開発と評価が、より高精度かつスピーディーに行えるようになりました。

タイのプルービンググラウンド
「AQ DONUTS」を世界に展開

1997年、当社は新タイヤ基盤技術「AQ DONUTS」を発表し、主要新商品に順次採用しました。
「AQ DONUTS」には、ゴムの硬化を抑制する「AQコンパウンド」とウェット性能などの性能低下を抑制する「トレッド・イン・トレッド」、「DONUTS」の技術を更に向上させた「GUTT-II」「O-Bead II」「Flat Force Block」が盛り込まれました。
「AQ DONUTS」は、国・地域によっては「UNI-T AQ」という名称で商品に採用され、海外市場で好評を博しました。

第3話 グローバルブランド力の向上とF1参入

F1参入

当社グループは、1996年に「タイヤ事業のグローバルシェア20%獲得」を目標に、1997年には「世界の各市場でナンバーワン、または強いナンバーツー、の強い存在感あるメーカーになる」ことを基本方針に掲げてきましたが、欧州市場においては存在感のあるナンバーツーからはほど遠い存在でした。ブランドイメージの向上、知名度アップのためには、欧州で生まれ、欧州の人々の関心を集め、欧州の人々に愛されている、伝統ある競技「F1」に参入し、当社の技術力の高さを証明することが最も有効であると決断し、1996年2月にモータースポーツ「F1」レース参入を発表しました。
予定よりも1年早く、1997年から参入した当社は、中堅の4チーム「プロスト」「アロウズ」「スチュワート」「ミナルディ」と契約しました。参入初年度にもかかわらず、2位を3回、3位を1回獲得、第11戦でアロウズのデイモン・ヒル選手が1位を快走したシーンは、グッドイヤーのタイヤを採用していたチームや専門家に衝撃を与えました。
1997年のシーズン終了後、タイヤのレギュレーションが変更され、溝の無いスリックタイヤから溝のあるタイヤになりました。またグッドイヤーが1998年を最後に「F1」から撤退すると発表しました。
1998年は新たに「マクラーレン」と「ベネトン」にもタイヤを供給することになりました。当社のタイヤを装着した「マクラーレン」が開幕から3連勝、その後グッドイヤーを装着した「フェラーリ」が巻き返し、終盤にかけて2つのタイヤメーカー間で技術力を争うような戦いとなりました。鈴鹿サーキットでの最終戦、日本グランプリで「マクラーレン」のハッキネン選手が劇的な勝利を飾り、コンストラクター部門では「マクラーレン」チーム、ドライバー部門はハッキネン選手がシリーズチャンピオンを獲得し、当社はチャンピオン獲得の一翼を担うことができました。

F1参入
ブランドメッセージの発信

「F1」参入により、欧州での知名度は大きく向上し、販売も着実に伸びました。世界中のテレビに「BRIDGESTONE」のロゴマークが映し出されたことで世界的な知名度も向上し、南アフリカやブラジルなど世界中の当社グループ従業員の士気を上げることにも貢献しました。

第4話 グローバル原材料調達

急速なグローバル規模の生産量の拡大や、同業他社との競争に対応するため、原材料の安定調達が必要となりました。そのため、原材料の自社調達能力と研究開発体制を、更に強化していくことが課題となりました。

スチールコード事業

合弁会社ブリヂストン ベカルト スチールコード(以下、BSB)は、1983年、米国ナッシュビル工場(現、ラバーン工場)の操業開始後、同工場向けを中心に輸出を本格化しました。スチールコードの米国での自給率は低かったため、1988年、BSBはベカルト社の米国子会社との合弁会社ベカルト ダイアスバーグ スチールコード社(以下、BDSC)を設立し、現地生産を開始しました。
ファイアストン買収を契機に、1991年にBSBはBDSCでの合弁関係を解消、1993年、当社はベカルト社との技術援助契約を解消、1994年にはBSBとベカルト社との合弁契約も解消しました。
その後、BSBはブリヂストン メタルファ(以下、BMA)に社名を変更し、米国にブリヂストン メタルファ U.S.A社を設立、工場を新設し1996年に操業を開始しました。
アジアでは、1996年、タイにブリヂストン メタルファ タイランド社を設立し、1998年から操業を開始しました。
欧州では、BMAが1996年にイタリアの工場を買収し、ブリヂストン メタルファ イタリア社(以下、BMI)を設立しました。しかし、BMIはたくさんの問題を抱えており、再建には幾多の困難に直面しました。労働組合との交渉は困難を極め、経営は大きく悪化しました。中央政府の介入も仰ぎ、国家レベルでの協議も行いました。最終的には政府への働きかけが功を奏し、決着をつけることができましたが、その影響で生産能力は大きく落ち込みました。その後、日本から多数の応援を出し、スチールコード本部全部門を挙げて再建に乗り出しました。これらの諸施策と新工場の稼働も相まって、生産性は順調に向上していきました。
1999年、当社はBMAを吸収合併しました。この合併を機に、当社技術センター内にスチールコードの開発部門を設置し、タイヤ開発部門との連携を強化、コスト競争力のある原材料を安定的に供給する体制が整いました。

カーボンブラック、合成ゴム、天然ゴム事業

旭カーボンは、カーボンブラックの国産化を目的として1951年に創業者石橋正二郎によって設立されました。モータリゼーションの進展に伴って同社の生産・販売量は飛躍的に伸び、国内4位のカーボンメーカーに成長、1999年には当社の子会社となりました。
1999年、北米向けの供給が主であったファイアストン合成ゴム社からのグローバルな合成ゴムの供給体制を強化するため、増資し生産能力を増強することを決定しました。
天然ゴム事業では、BFSが西アフリカに保有する世界最大規模のゴム農園に加え、1999年、天然ゴムの一層の安定調達と戦略的な研究開発を目的とし、インドネシアの天然ゴム農園を買収し、生産と研究を開始しました。