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後悔しない人生を送るために、日々の練習を全力で。

北風大雅

  • インタビュー
  • 車いすバスケットボール
北風大雅

車いすバスケットボールで、今、注目の若手が北風大雅選手だ。現在23歳。大学一年生の時に車いすバスケに出合い、わずか数年で強化指定選手選考合宿に召集がかかるほど実力を伸ばしてきた。ブリヂストンの社員として、午前中は仕事に従事しながら、午後は競技の練習に励む北風選手が、これまでの歩みと今後の目標を語った。

サッカー少年で、中学時代は県大会優勝

障がい者スポーツの中でも、ひときわ激しい競技が車いすバスケットボールだ。一般的なバスケットボールと同じ28m×15mのコートを、競技用の車いすに乗った1チーム5人の選手たちが縦横無尽に動き回り、ボールをゴールに入れた得点を競い合う。ゴールも一般的なバスケットボールと同じで、高さ3.05m。攻守がすぐに切り替わるスピーディーな展開は、手に汗握るほどスリリングだ。車いす同士がぶつかることも多く、迫力も十分。競技としての魅力に満ちている。そんな車いすバスケの世界で活躍する北風大雅選手は、荒々しさすら感じる競技のイメージとは裏腹に、穏やかで物静かな雰囲気の青年だ。

北風大雅選手

幼少の頃は、性格は内気なのに体を動かすことが好きで、部屋でゲームをするよりも外で友達と遊ぶことが多かったという北風選手。小学1年生から高校3年生まではサッカーに夢中で、中学生の時には福井県で優勝したこともある。高校での目標は、県内を制覇して全国大会に出場すること。「1、2年生の時は試合に出られなかったんですが、3年生ではレギュラーになることができたんです。それで練習を日々頑張っていたんですが、最後は福井県ベスト8で負けてしまい、部活を引退しました」

高校時代の恩師の紹介で、車いすバスケの世界へ

高校卒業後は金沢工業大学の建築学部に進学。父親が自営業で建築関係の仕事をしているため、将来は一緒に会社を大きくできたらと思ってのことだった。大学では勉強に集中するために、サッカーを封印した。

北風大雅選手

そして、大学1年の7月。北風選手の運命を大きく変える出来事が起こる。実家に帰省した際に、母校である高校のサッカー部に遊びに行く途中で事故に遭い左足を失ってしまったのだ。「すぐに恩師である高校の部活の先生に事故のことを伝えました。すると見舞いに来て下さって、今度、元Jリーガーで車いすバスケットボールの元日本代表キャプテンが福井に講演に来るから、一度話を聞いてみたらと言ってくれたんです」

講演にやってきたのは、京谷和幸さん。車を運転中の事故で車いす生活になった元Jリーガーで、車いすバスケットボールでパラリンピックに4大会連続出場。日本代表のキャプテンも務め、現在はヘッドコーチとして車いすバスケットボールの男子日本代表を指揮する人物だ。「京谷さんと会わせていただき、そこで初めて車いすバスケのことを知りました。競技の普及に努める福井県の県庁の方が付き添いでいらして、今度練習に来てみてと言っていただいたので、後日体験しに行ったんです」

車いすバスケ初体験でスポーツの素晴らしさを再認識

事故に遭ってからおよそ5ヶ月後、北風選手は初めて車いすバスケを体験した。高校までサッカーに取り組み、結果を残してきただけに、運動神経の良さには自信があった。ほかのスポーツもそれなりにできると思っていたのだが......。「まあできなくて。すごい悔しかったですね。なにより車いすの操作が難しいんです。全然イメージ通りに進まない。しかも還暦を過ぎた高齢の方や中学生にも負けるという屈辱まで味わいました。心の中では、なんでおじいちゃんができるの? なんで中学生ができるの? 俺は体力的に一番脂がのっているはずなのに、なんでできないんだ! って感じでしたね」

北風大雅選手

初めての車いすバスケ体験は、悔しいだけで終わったわけではない。車いすに乗って風を切れたことは嬉しかった。「事故で脚をなくしたので、もう走ることは難しいと思っていたのに、車いすを動かすことで、走っている時のように自分の力で風を切ることができたんです。強い風を感じることができたんです。スポーツってやっぱりいいなあと思いました」

車いすバスケを全力で練習するわけとは?

北風大雅選手

北風選手は当時まだ入院中で、手術を重ねながら月に1、2回程度のペースで車いすバスケの練習に参加していた。そして、翌年の3月に最後の手術を終えると、4月からの新学期に合わせて大学のある金沢に戻り、そのタイミングで石川県の車いすバスケチームのメンバーとして競技を始めた。

新しくスポーツを始めるなら、ちゃんと基礎からやろうと思っていたと話す北風選手。実はサッカーでは自分の中で努力が足りなかったという後悔がある。「もちろん練習はしていましたが、なんとなくこなしていただけで、今思えば、試合をイメージしてトラップをしたり、パス回しをしていたら、もっとサッカーがうまくなっていただろうなと思うんです。フィジカルトレーニングやランニングメニューも同じで、こなすだけではなく強くなろうと思って前向きに取り組んでいたら、よりレベルの高い選手になれたかもしれないなあと」そういう思いがあるからこそ、北風選手は車いすバスケに全力で取り組んでいった。

目指すのは、なんでもできるユーティリティプレイヤー

車いすバスケットボールは、さまざまな障がいを持つ選手たちがひとつのチームとして戦う。そのため、障がいの重さによって選手それぞれに点数がつけられていて、チーム5人の合計を14点以内にするというルールがある。北風選手の場合は一番点数の高い4.5。つまり車いすバスケを行う上では最も障がいが軽く、その分、試合ではキープレイヤーとしての役割が期待される。

北風大雅選手

「バスケットボールでいえば、僕はセンタープレイヤーとして試合に出場しています。一般的には体の大きな選手が担うポジションなので、体の小さな自分は異色のプレイヤーだとよく言われるんです。プレースタイルとして目指しているのは、ゲームをコントロールできて、シュートもできて、センタープレーもできて、味方を生かすこともできる、要はなんでもできるユーティリティプレイヤーです。もともと左利きですが、普段から右手もよく使うので、両利きを生かした器用なプレーが得意なんです。それは自分のストロングポイントだと思いますし、さらにスピードをつければ、理想のプレイヤーになれるはずです」

バスケIQのレベルアップに向けて

ユーティリティプレイヤーになるために北風選手が意識的に取り組んでいるのが、バスケIQのレベルアップ、つまりは競技への理解を深めて、それを戦術に生かす能力と、シュート力の向上だ。

北風大雅選手

「現在、所属するのは、車いすバスケを一般的なバスケットボールとは別の競技として捉えるのではなく、バスケットボールを車いすに乗ってプレーするだけという考え方で練習や試合を行うチームです。日々の練習はチーム全体で頭を使って考えながらやっていますし、自分個人ではその日の練習で感じたことや学んだことを専用のバスケノートに書いています。休日も車いすバスケの動画を見て研究するなどしているうちに、自然とバスケIQが上がっていると感じます。自主的に壁打ちのシュート練習も行なっていて、技術面でのレベルアップにも務めることで、全体的に少しずつ成果が出てきた実感がありますね」こうした努力の甲斐もあり、北風選手は23歳以下の代表として国際大会に出場。2022年度は強化指定選手として選出され、A代表の合宿にも参加している。

目標はパリ2024パラリンピックでの金メダル!

北風大雅選手

北風選手が大きな目標として掲げるのが、パリ2024パラリンピックへの出場だ。そのためにまず目指すのは、日本代表の強化指定選手に選ばれること。それに向けて、高い意識や志をもって日々のトレーニングにのぞんでいる。「今はまだ現実味がないんですが、もし出場できたら、全力で楽しみたいと思います。それとやっぱり出るからには金メダルを取りたいですよね。サッカーをやっていた時は、オリンピック代表に選ばれて金メダルを取るなんて、夢のまた夢みたいな話でしたが、車いすバスケットボールでは、夢のままでは終わらせません」

そして、もうひとつの目標は、後悔しない人生を送ることだ。「高校でサッカーを引退したことがすごくつらくて、再びサッカーがやりたくなってきた矢先に事故に遭ってしまい、ボールを蹴ることができなくなってしまった。だから、いつなにが起こってもいいように、今できること、今したいことを全力でやって、後悔のない人生を送りたいと思います」

サッカーでの悔恨を糧に、日々、車いすバスケと真剣に向き合う北風大雅選手。夢に向かって突き進んだ先には、なにより自分自身が納得のいく未来が待っているに違いない。

北風大雅選手

PROFILE

北風大雅

北風大雅TAIGA KITAKAZE

1998年、福井県あわら市出身。中学、高校時代はサッカー部に所属し、高校では主将を務める。 大学1年の夏、事故で左足切断の大けがを負う。高校時代のサッカー部監督の紹介で、車いすバスケットボール男子日本代表・U23日本代表を指揮する京谷和幸氏と出会い、大学1年の冬から車いすバスケットボールを始める。2020年ブリヂストンに入社。2022年チームブリヂストン アスリート・アンバサダーに就任。2022年度JWBF男子強化指定選手に選抜。

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