東京1964オリンピック 水泳(競泳)銅メダリスト、庄司敏夫さんの想い

東京1964オリンピック 水泳(競泳)銅メダリスト、庄司敏夫さんの想い

1964年の東京オリンピックに出場し、競泳男子800m自由形リレーで銅メダルを獲得したブリヂストンOBの庄司敏夫さんにお話を伺いました。

ブリヂストン水泳部の発足

1956年、ブリヂストンは創立25周年の記念事業として、創業の地である福岡県久留米市の小・中学校にプールを寄贈しました。さらに、プールの寄贈に合わせて「水泳指導者の育成」を目的に、翌年、久留米工場に水泳部が発足。(※現在は廃部)

ブリヂストン水泳部には全国各地から第一線で活躍する水泳選手が集まり、指導者の育成に加え「オリンピックに出場する選手の育成」と「実業団大会の全国制覇」が目標となりました。

ブリヂストンからオリンピックへ

ブリヂストンからオリンピックへ

1964年に開催された東京オリンピックにはブリヂストン水泳部から4名の選手が出場、その一人が千葉県出身の庄司敏夫さんでした。庄司さんは故郷の南房総の海で泳ぎを覚え地元の中学・高校で活躍。高校3年生となった1958年に、アジア大会候補選手の強化合宿で一緒になったブリヂストン水泳部の先輩に誘われてブリヂストンに入社することになりました。

庄司さん練習風景

「私たち水泳部は久留米工場で働く傍ら練習を積んでいたわけですが、当時は工場を挙げて水泳部を支援してくれました。多忙な部署に配属された私も、勤務を1時間早く切り上げて練習することが認められたり、合宿への参加を優先させてもらったり、冬場の練習場所を確保してもらったりと手厚い支援を受けながら練習中心の生活を送りました。そのおかげで水泳部は躍進を続け、私を含む4名が1964年の東京オリンピックに選出されました。」と当時を語る庄司さん。

夢の舞台、オリンピック

第十八回オリンピック競技大会 賞状

庄司さんは当時のオリンピックという大舞台に立った時のことをこう振り返ってくれました。「日本で初となるオリンピック開催だけに国内の注目が高く、心理的な重圧は相当なものがありました。東京1964オリンピックでは日本チームが競泳のメダルが全く獲れず、私が出場した800mリレーは競泳で最後の種目だったこともあって、日に日に緊張が高まっていきました。決勝前夜は、応援してくれた会社の仲間たち、故郷の皆のことが頭に浮かんで寝付けなかったほどです。決勝当日の朝、リレーメンバーの発表があり、4人で決意を固めてレースに臨みました。何より素晴らしかったのは、4人全員がベストタイムを大幅に更新して泳いだことです。結果、日本新記録で3位になり銅メダルを獲得することができました。」

ブリヂストンへの恩返しのために

銅メダルを獲得した庄司さんは東京1964オリンピックの翌年に水泳部を退部。栃木県の那須工場、栃木工場への異動を経て、定年までブリヂストンに勤務されました。

ブリヂストンへの恩返しのために

「早々に水泳部を離れた理由は、自分のオリンピック出場を支えてくれたブリヂストンへの恩返しと、その後の長い社会人人生に向け、一社員として成長したいという思いが強かったからです。オリンピックまでは練習ばかりで、周囲をサポートするかたちでしか業務に携われなかったので、必死になって遅れを取り戻しました。ただ、今でもオリンピックの時期になるとやはり血が騒ぎますね。」と庄司さんは語ります。

昔も今も、オリンピック・パラリンピックに出場する選手たちを支えるブリヂストンの姿勢は変わりません。ブリヂストンはこれからも夢に向かって挑戦し続ける人を応援し、支えていきます!

庄司敏夫(しょうじ・としお)
1940年、千葉県生まれ。1959年にブリヂストンに入社し、久留米工場 計画課に配属。業務の傍ら練習を積んで、1964年の東京オリンピックに出場し、競泳男子800m自由形リレーで銅メダルを獲得。

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