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滑降への恐怖心に打ち勝ち、さらなる高みを目指す

鈴木猛史

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鈴木猛史

雪上を時速100キロ以上で滑り降りるチェアスキーを自在に操り、パラリンピックにアルペンスキーで4大会連続出場。ソチ2014冬季パラリンピックでは見事金メダルを獲得したのが鈴木猛史選手だ。今でもレース前には恐怖心が先立つという鈴木選手が、それでも挑戦を続ける理由とは?

きっかけは、思い切って挑んだスキー教室

子どもの頃は運動や走ることが好きで、いろいろなところを駆け回っていたという鈴木猛史選手。小学2年生の春に起きた交通事故で車いす生活になってからも、水泳や車いすマラソンなどのスポーツに果敢に挑戦していた。チェアスキーとの出合いは小学3年生の時。学校でのスキー教室に参加する際に、障がいがあるから見学するのではなく、なるべくほかの友達と同じことができるようにと母親が見つけてくれた。「実際に見せていただいた時は、スキー板一本で滑ることに驚きました。試走もなく、そのままチェアスキーを預けられてしまって、どうやって乗るんだろう?と考えながら、思い切ってスキー教室に挑んだんです」

鈴木猛史選手

「最初はリフトに乗ることもできなかったので、同行していた母親にゲレンデの途中まで押してもらって、そこから滑りました。初めは転んでばっかりでしたが、楽しかったですね。チェアスキーもそうですが、なにより学校の友達と一緒にスキー場に行けたことや、ゲレンデの食堂でカレーライスをともに食べられたことが嬉しかった記憶があります」

金メダリストの言葉で強い気持ちになれた

パラリンピックを意識したのは小学4年生の時。テレビで観た長野1998冬季パラリンピックに心を揺さぶられた。「特に印象に残っているのは、志鷹昌浩選手と大日方邦子選手がパラアルペンスキーで金メダルをとられたこと。おふたりともチェアスキーの選手だったこともあり、表彰台に登る姿を見て感動しました」

パラリンピックに憧れを抱いたものの、当時の鈴木選手はスキー教室で急斜面に連れていかれると、怖くて滑ることができず、いつも泣いていたという。恐怖心に勝てない状態が続いていた鈴木選手だが、ある時、思わぬ形で転機が訪れる。パラリンピックで金メダルを獲得した志鷹選手が、講演のために猪苗代町にやってきたのだ。すると関係者がふたりで話をする機会を作ってくれた。「志鷹さんに滑る時の恐怖心をどうしているのか聞いたんです。すると弱気な僕を奮い立たせるかのように“怖いならやめてしまえ”というような厳しい言葉が返ってきました。僕は負けず嫌いなので、そう言われたことが悔しくて。次のスキー教室では、絶対に滑ってやる、やめてやるもんか!という強い気持ちで挑み、滑ることができました」

鈴木猛史選手

恐怖心から涙を流したことは以前と同じだったが、それでも滑りきることができたこの時の経験と記憶は、今でも大切に思っている。「海外は本当に難しいコースばかりなので、そこを100キロ以上のスピードで滑り降りるのは、キャリアを積んでもやっぱり怖いんです。そういう時は志鷹さんに言われた言葉を思い出すようにしています。僕はあの言葉のおかげで強くなれたんです」

“乗り気ではなかった”世界大会で、大きく飛躍

小学校高学年になると、練習も本格的になっていく。12月から4月の終わりまでは、基本的に土日は雪上でチェアスキーとともに過ごしていた。めきめきと実力をあげると、中学3年生の時には初めて世界大会のメンバーに選ばれた。でも、鈴木選手はそれをすぐには承諾しなかった。「海外のコースは急勾配でスピードが出るし、難易度も高いから怖いという情報があったので、僕は最初、行きたくないと伝えたんです。でも周囲の方々から説得されて、行くことにしました」

鈴木猛史選手

渋々出場した大会だが、これが結果として鈴木選手を大きく飛躍させることになる。「3位になって表彰台に上がることができたんです。僕でも通用することがわかりましたし、もっと練習をすれば、きっと表彰台のてっぺんを狙えると思いました。国内での大会よりも速く滑る選手がいることがわかり、世界のレベルを見られたことも大きかったですね。成長に繋がり、競技に対する気持ちも変わったんです」実際に難しいコースを目の当たりにしたことで、ここをうまく滑りたいという気持ちが湧き上がった。そして、海外にはほかにも難コースがあるので、どんどん世界に出て行かなければいけないと決意を新たにしたのだ。出場する前の気持ちとは、もはや真逆といってもよかった。

パラリンピックの予期せぬ重圧

そして、2006年。高校3年生の時に初めてのパラリンピックとなるトリノ2006冬季パラリンピックに出場する。「正直、毎年行われる世界大会と一緒だろうと思っていたんですが、観客の数が桁違いでしたし、その中で滑るのはテンションが上がると同時に、プレッシャーもすごかった。4年に1度の大会というだけでも重圧がかかり、それを打ち消すために休まず練習を続けていたら体調を崩してしまい、現地でレースを1つ無駄にしてしまったんです。すごくショックでした」

鈴木猛史選手

結果、トリノ2006は4種目に出場し、棄権、途中棄権、12位、4位という成績で終わった。あと一歩のところでメダルが取れなかった......。「なめていた自分を殴りたかったですし、これによっていかに多くの方に応援されているのかがわかりました。最初は自分のためにメダルがほしい、自分の夢を叶えるための大会だと思っていたんですが、メダルなしで帰った時に、よく頑張ったねと言ってくださった周りの方々の表情を見ていたら、自分が悲しくなってしまった。応援してもらっていたんだなとつくづく思いましたし、結果を残さなければいけない厳しさを知った大会でもありました」

寮生活で羽目を外し、体重が10キロ増量

トリノ2006冬季パラリンピックを境に変わったかに見えた鈴木選手だが、大学での寮生活が始まると、親の目が届かないこともあり、自由を満喫してしまう。それは多くの大学生にはありがちなことだが、アスリートとしては褒められることではなかった。

「お菓子やカップラーメンを食べながら、朝までゲームで遊び、それから学校に行くような生活を送っていたんです。その結果、体重が10キロも増えました。それでも僕は全然勝てるでしょって思っていたんです。でも大会に出場すると全く勝つことができず、大学1年生の男がコースの脇で涙を流して泣きました(苦笑)。そこからですね、食生活に気をつけるようになったのは」

スタート時に応援されていることを実感

気持ちを入れ替えて調子を取り戻した鈴木選手は、パラリンピックのことを、応援してくれる方々に恩返しができる場所、感謝を伝える場所だととらえるようになっていた。そして、4大会連続で出場を果たし、バンクーバー2010冬季パラリンピックでは銅メダル、ソチ2014冬季パラリンピックでは金メダルと銅メダルを獲得。いつも支えてくれているみなさんにメダルを見せてあげたいという夢を叶えることができた。

「特にレースのスタートの時に、応援されていることを実感するんです。パラアルペンスキーはスピードが出る怖い競技ですし、パラリンピックは4年に1度なので、このレースで失敗してしまったら次は4年後というプレッシャーもあります。逃げ出したくもなりますが、応援してくれる人たちにメダルを見せたいと思うと腹をくくれるんです。壮行会に集まっていただいた大勢の方の顔が思い浮ぶたびに、勇気をもらっています」

今は家族の存在が一番のモチベーション

鈴木猛史選手

今、競技に向き合う上での一番のモチベーションは、家族だと話す鈴木選手。「妻とは、ソチ2014冬季大会で金メダルを取ったあと、彼女がパーソナリティを務める福島のラジオ番組に出演したことがきっかけで結婚したんです。現在は息子もおります。妻にメダルを見せたい、息子にとってかっこいいお父さんでいなくちゃいけないということがモチベーションになっています。独身の時はレースのスタート時に応援してくれる人たちの顔が浮かんだんですが、今は息子や妻の顔を思い出し、ここで逃げたらかっこ悪いと自分に言い聞かせています」

前回の平昌2018冬季パラリンピックは、結婚後に初めて挑んだ大会だったが、2つの種目で4位に入賞したものの、あと一歩のところでメダルには手が届かなかった。だからこそ、次の北京2022冬季パラリンピックではメダルを獲得したいと話す鈴木選手。「妻と息子にメダルを見せてあげたいですし、応援してくださる方の中には、メダルを見られるのは一生に一度かもしれないとおっしゃる方もいたので、再びメダルを見せることで、夢は何度でも叶うってことを伝えられたらいいですね」

家族のため、そして、応援してくれる人たちのため。北京2022冬季パラリンピックでのメダル獲得を目指し、鈴木猛史選手は、雪上を高速で滑降することへの恐怖心と戦い続けるのだ。

鈴木猛史選手

PROFILE

鈴木猛史

鈴木猛史TAKESHI SUZUKI

1988年生まれ、福島県耶麻郡猪苗代町出身。小学2年生のときに交通事故に遭い、両大腿を切断。長野1998冬季パラリンピックをテレビで観戦し、パラリンピックを目指す。冬季パラリンピック、アルペンスキー競技に4大会連続で出場。2021年チームブリヂストンアスリートアンバサダーに加入。

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    狩野亮 インタビュー|パラアルペンスキー

    狩野亮 インタビュー|パラアルペンスキー

    最高時速100キロを超えるこの競技において、限界ギリギリまで攻める狩野亮選手の思いとは?

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