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1906~1929年

第1章 当社創業の基盤 - 創業前史

第1章 当社創業の基盤 - 創業前史 1906~1929

第1節 創業者 石橋正二郎、実業界に第一歩を踏み出す

第1話 正二郎、当社前身の仕立物業「志まや」を引き継ぐ

20世紀初頭の1906年3月、17歳で久留米商業学校を卒業したブリヂストンの創業者石橋正二郎は、兄の重太郎とともに「志まや」の仕立物業を父の徳次郎から引き継ぎました。
このとき父の徳次郎は、兄の重太郎に外部関係の仕事を、正二郎には内部関係の仕事をそれぞれ担当させ、兄弟仲良く協力するようにと言い渡しました。
当時の「志まや」は徒弟8、9人、家屋敷を含めて資産約9,000円でした。正二郎は、一生をかけて実業をやる以上はなんとしても全国的に発展するような事業で、世の中のためになることをしたいと大きな夢を描きました。

第2話 「足袋(たび)」のみに専業化し、大胆な経営改革を図る

自家製の大看板を掲げた志まやたび本店
志まや製の足袋

その年の暮、兄の重太郎が一年志願兵として軍隊に入ったため、「志まや」の経営の一切は正二郎一人の責任となりました。
このとき正二郎は、シャツやズボン下、脚絆(きゃはん)に足袋といった種々雑多な品物の注文に応じる非能率的な仕立物業に見切りをつけ、「志まや」の事業を「足袋専業」にすることを単独で決断し実行に移しました。1907年のことです。
また同時にこれまで無休かつ無給という慣習だった徒弟制を改め、徒弟を職人として給料を払い、勤務時間を短くし、月の1日、15日を休日とするなど思い切った改革を実行しました。これは当時の商家としては大改革であり、父への報告はすべて実行の後であったため、ひどく叱られたといいます。
正二郎は「今までこのように父を怒らせたことはなかったのに、無断でやったから非常な心配をかけて申し訳ないと思った」と反省はしましたが、一方で確信を持って新しい経営方式に邁進していくことになります。
「志まや」は足袋専業となって徐々にその生産量を増やし、兄の重太郎の除隊後はふたりで協力して隣接地に165平方メートル(50余坪)の新工場を建設し、30人の新しい工員を採用しました。また、石油発動機を据えつけ各種の動力ミシンと裁断機を導入するなど、生産能力の拡張と機械化を進めました。その結果、下請けへの依存が低下し生産能率は大きく向上しました。
足袋専業化の前年の1906年の日産280足から、1909年には700足にまで上昇、これは引退していた父の徳次郎を喜ばせました。このとき正二郎は20歳。父徳次郎はその翌年に52歳で世を去り、兄の重太郎が二代徳次郎を襲名しました。

第3話 足袋専業化後の苦闘と工夫

自動車による宣伝を描いた、当時のパンフレット
自動車による志まやたびの宣伝売り出し
能率向上と信用第一

1907年に足袋専業に移行した後の企業努力は、主として3つ挙げることができます。
第一は、石油発動機の導入を始めとする機械化による能率向上。それにより生産高は年々増加しました。
第二に、スムーズな資金調達。「志まや」は後発の足袋専業メーカーであったため信用が十分ではなく、銀行などからの借り入れは容易ではありませんでした。そのような中、正二郎は信用第一をモットーとし、借入金の返済期限を厳守しました。この努力が「志まや」の信用を高め、運転資金を次第にスムーズなものにしていきました。

大評判となった自動車の広告と宣伝映画

第三は、同業他社との市場競争に打ち勝つための広告手段の開発にありました。当時東京や岡山の大手の足袋業者は、看板や新聞に多額の資金を投じ堂々と広告していましたが「志まや」では費用のかかる真似はできません。そこで、鉄板を買ってきて、兄とふたりでペンキを塗り自家製で間に合わせ、楽隊を雇い、のぼりを立てて町を練り歩くなどをして宣伝努力をしていました。
1912年、正二郎が23歳で初めて上京した際、日本自動車合資会社(大蔵財閥系の自動車輸入販売会社)を訪れ、初めて自動車に試乗する機会を得ました。このとき正二郎は自動車を「志まやたび」の宣伝・広告に利用することを思い付き、兄徳次郎と協議のうえ、約2,000円のスチュートベーカー1台を購入。この金額は「志まや」貸借対照表における機械什器資産額に匹敵する高額なものであり、思い切った投資となりました。
自動車は、当時全国で自家用車354台、タクシー・トラック・軍用車計が190台走っていたにすぎず、九州にはまだ1台も無かったのです。自動車を初めて見る九州の人々は「馬のない馬車が来たぞ!」と大変驚き、自動車による「志まやたび」の市場拡大政策は絶大な効果を収めたのです。
また、当時日本に到来した映画にも着目し、足袋の製造工程を映画化して劇映画とともに各地で無料公開しました。これも大変珍しがられ人気を呼びました。
当時から、正二郎は売上高の10%を適正利潤とし、それを基準にコスト・価格の切下げに努め良い品を作って顧客のニーズを満足させる一方、10%の利益を確保し自己蓄積を強化するという目標を掲げました。この目標に向って正二郎は努力し、この考え方は以降の正二郎の経営活動を貫く方針となりました。

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