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1930~1936年

第2章 創業の経緯と創業期の苦難

第2章 創業の経緯と創業期の苦難 1930~1936

第2節 創業の経緯

第1話 タイヤ国産化の決意

自動車タイヤ事業への挑戦

日本国内の自動車需要は、1923年の関東大震災後、東京市が市電に替わる交通手段として運行させたのが契機となってようやく広がりを見せ始めてはいましたが、四輪自動車保有台数はトラックや消防車などの特殊車を含めても8万台に達していませんでした。また、大部分の車がフォードやゼネラルモータースの車で、乗用車の約60%、トラックの約90%を外国車が占めていました。
1928年頃の欧米のゴム工業の主力は自動車タイヤが天然ゴムの6割を消費するまでになっていました。その頃、米国の自動車生産台数は年間500万台、保有台数2,300万台、タイヤ生産量は年間56万5,000トンもありました。
日本国内で自動車タイヤの需要が増大しても良質安価な輸入品か、当時英国のダンロップの子会社であるダンロップ護謨(極東)の神戸工場が供給するタイヤしかなかった時代ですが、日本の将来のモータリゼーションを確信した石橋正二郎は、自分の手で自動車タイヤを国産化したいと考えるようになりました。
日本にも拠点を置いた自動車メーカーの品質検査は厳格で、国産タイヤが新車用として採用される見込みは当時ありませんでしたが、それにもかかわらず石橋正二郎にタイヤ国産化を決意させたのは、良いものを安い値段で提供し、自動車の発展に貢献するとともに、製品を輸出して外貨を獲得し国際収支の改善という当時の国策に貢献したいと願う国家的使命感があったことと、地下足袋とゴム靴で築いた資本をもとに、自分の手で新しい産業を起こしたいという開拓精神があったためでした。

反対の中でのタイヤ事業化決断

自動車タイヤの起業について正二郎は、兄の徳次郎社長に相談しましたが反対されました。徳次郎の意見は「新事業は危険であるし、やらぬがよい。日本足袋は立派な業績をあげているのだから、何もそのような危険な事業に飛び込んで苦労せぬ方がよい」というものでした。日本足袋社内の技師に意見を求めても賛同は得られず「タイヤの製造技術は極めて難しく、たとえ多額の研究費を投じたところで容易に技術的成功の見通しはつきかねる。この起業は危険である」と言われ、輸入商社に意見を求めても「アメリカにおける自動車タイヤは巨大な近代設備による大量生産方式で生産されている。現在の日本の自動車市場はすこぶる小さく、アメリカのタイヤメーカーがダンピングでもすれば、国産タイヤはひとたまりもなく潰されてしまうだろう。やるべきではない」とやはり反対されました。
反対意見が多くを占める中、ただ一人、九州帝国大学工学部応用化学科教授でありゴム研究の第一人者であった君島武男工学博士だけが、「自分はアメリカのゴム化学を学ぶためアクロンの大学に長く留学していたので、タイヤの製造技術がいかに難しいものかをよく知っている。しかし、日本足袋の年間利益相当分くらいの資金をあなたが研究費としてつぎ込み、100万円や200万円は捨てる覚悟があるのであれば、協力しましょう」と、タイヤ国産化について相談を持ちかけた正二郎に語ってくれたのでした。
その頃の日本足袋は業績好調で資金に余裕があったため、100万円程の研究費を投資することは困難ではないと正二郎は考えました。正二郎は、1929年4月、技師に命じて極秘裏に自動車タイヤを一日300本製造するのに必要な機械類一式を、米国・オハイオ州アクロンの会社に発注しました。

第2話 第1号タイヤの誕生

日本足袋タイヤ部による試作の開始

タイヤ製造機械を発注した後、日本足袋はパウル・ヒルシュベルゲル技師と森鐵之助の両技師に命じてタイヤ製造技術の研究を開始しました。
機械入荷を控え、1929年の暮れに本社事務所南側に、2,640平方メートルの倉庫を改造したタイヤ工場を準備しました。機械はタイヤ成型機、垂直式の加硫機、モールドなどで、タイヤの材料も買い入れました。機械が到着したのは1930年1月、ただちに据え付けに着手し試作の準備に取りかかりました。
当時は、米国ウォール街の株式大暴落に端を発した世界恐慌がわが国にも波及し、1930年1月に実施された金輸出解禁(金本位制復帰)措置のショックと連動して日本経済は深刻な不況に見舞われていました。このような状況の中、新規事業を起こすなど夢にも考えられない情勢であったのですが、日本足袋は新規事業に乗り出していったのです。
機械の据え付けをしている最中の2月11日、石橋正二郎は兄の徳次郎に代わって日本足袋社長に就任しました。その日は、日本足袋の本社事務所落成祝賀式の当日でもありました。新装なった本社事務所の講堂に全幹部を集めた石橋正二郎は、社長就任の挨拶の中で次のように述べています。
「なお今日まで都合によって発表を見合わせておりましたが、目下建設中の大実験室の目的は自動車タイヤの製造であります。すでに一年前、米国アクロンに注文した機械は着荷しております。現今、わが国で消費する年3,000万円の自動車タイヤ代はみな外国人に払っております。将来、5,000万円、1億円にも達する大量の消費額となるべき自動車タイヤを全部外国人に占められることは、国家存立上重大な問題と思うのであります。
幸い、当社技師長のほか、九州帝大の君島教授の参加を得ることができ、一年間の研究を重ね、技術的確信を得た次第で、本春より作業を開始する運びであります。
これは、当社の新事業として、またゴム工業者たる当社の使命と考えましてその必成を期しております。私は一家、一会社の問題ではなく、全く国家のため大いに働く考えで、将来ますます社会に奉仕せんとする理想を有する者であります。私の事業観は、単に営利を主眼とする事業は必ず永続性なく滅亡するものであるが、社会、国家を益する事業は永遠に繁栄すべきことを確信するのであります。
私はわが社の創業精神を『工業報国』とし、この信念のもとにこの使命を果たすことを主義とし、将来あくまで進取的に奮闘する決心であります」
こうして、日本足袋はタイヤ部を設置し、自動車タイヤの試作を開始していきました。

日本足袋の倉庫を改造したタイヤ仮工場
仮工場でのタイヤ製造
第1号タイヤ誕生までの苦闘

試作には、日本足袋の各部門から選抜された約20名の従業員があたりました。輸入した機械は成型、加硫用のみであったため、それ以外の作業はほとんど手作業となりました。担当者は全員、タイヤ製作の知識・経験ともに皆無であり、輸入機械に添付されていた10枚余りの仕様書を唯一の頼りに試作を進めなければならなかったため、当然、作業はスムーズには運びませんでした。苦労を重ねた末、自動車タイヤが完成したのは1930年4月9日午後4時。ついに第1号の「ブリヂストンタイヤ」が誕生しました。
小型の乗用車用タイヤでした。
5月11日には第2号タイヤが完成。続いて新たなサイズ30×4.50 4プライのタイヤを生産してサイズを増加させました。石橋正二郎は後年、当時を振り返って、「幼稚ながらも外国の指導を受けず、独自の研究によって技術を築きあげたわけである。私も素人ながらこの苦難によって心血を注ぎ技術に専念したので、技術上の知識を深めることができ、今日から見ればその苦労はむしろ有益であったと思う」と語っています。

第一号タイヤの誕生

第2節 創業の経緯-2

第3話 テスト販売の開始と技術者の招へい

1930年に設置された日本足袋タイヤ部は、悪条件のもとで試作を重ねる一方、タイヤ市場の調査と試作品のテスト販売を行いました。それは、試作品を使用してもらうことによって製品に関するデータを得るとともに、将来のタイヤ販売代理店を確保したいと考えたために実施したものでした。半年間の試行の末、製品の品質とチャネル確保に一応の見通しを得、1930年10月から試作タイヤの販売に取り掛かりました。
当時、わが国のタイヤの販売は都会の小売店が行っており、三井物産、三菱商事などの商社が輸入したタイヤを販売していました。
試作品の販売は、小売店に売り込むことから始まりましたが、既存の小売店では品質も信用も未知数の「ブリヂストンタイヤ」を容易に取り扱ってはもらえません。日本足袋タイヤ部の名称では「足袋屋のタイヤか」と軽く見られることも多く、タイヤの小売店以外のルート、すなわちタイヤの修理店や日本足袋の販売ルートを利用するより他に方法がありませんでした。
「ブリヂストン」と言う耳慣れない名称の説明から商談を始めなくてはならなかった当時、新規取引の小売店開拓はタイヤを置いていただくだけでも精一杯で、10本のタイヤの取引に対して現物を2本付ける、といった条件も出さなければならない厳しいものでした。その点、日本足袋の代理店はタイヤに関する知識は不足していましたが「石橋さんが作られたものなら」という信頼感から、新たにタイヤを取り扱う部門を新設するなどして進んで応援をしていただきました。
試作品による市場開拓を進める中で一番の問題は、やはり製品の品質でした。その向上のためにはタイヤ専門の技術者がいない状態を改善する必要がありました。当時の日本で信頼できる技術者が育っているのはダンロップ護謨(ゴム)1社に限られていたことから同社の技術者を招くことがもっとも適切な解決策であると思われました。
日本足袋が白羽の矢を立てたダンロップの技術者は鈴田正達と松平信孝の2人です。2人は「日本の資金と日本人の技術者の力で、世界一のタイヤを作りあげねばならぬ」という日本足袋の信念に共鳴し、1931年に当社に入社することになりました。

第4話 社名「ブリッヂストン」の決定

1929年、石橋正二郎は創業に先立って米国にタイヤ製造機械を発注しています。その際、合わせてタイヤの金型(モールド)を注文しましたが、金型には製品のブランド名や社名を刻む必要がありました。したがって、機械の発注前に社名と商標を決定しなければなりませんでした。
昭和初期のわが国には、舶来品崇拝の風潮がありました。特に自動車分野では乗用車、トラックともにほとんどが外国車で、多くの車が外国製タイヤを装着していました。ドライバーがタイヤを取り替えるとき、外国製品並みの品質とイメージを求めていたため、品質は技術面で努力するとしてもイメージの点では英語の会社名、製品名を検討する必要がありました。
また、輸入品と競争するにとどまらず、海外に輸出して外貨獲得に貢献しようとした石橋正二郎の念願からも、海外でも通用しやすい英語の会社名、製品名を工夫する必要がありました。
タイヤにはダンロップ、ファイアストン、グッドイヤー、グッドリッチなど、発明者や創業者の名前が付けられる例が多く、正二郎は石橋の姓を英語風にもじって「ストーンブリッヂ」ではどうかと考えます。しかし語呂がよくないことから「ブリッヂストン」と並び替え社名、商標名と決めました。
また、石で橋を築くときに中心となる要石(キーストン)の断面図形を商標として採用し、その中にブリッヂストンの頭文字であるBとSの二文字を配置しました。

キーストンマーク

第5話 当社の創立

「ブリヂストンタイヤ」の試作とテスト販売が進展した段階で、日本足袋はタイヤ部を株式会社として分離独立させることとしました。日本の経済情勢は新規事業立ち上げなど思いもよらぬ不況のどん底にありましたが、石橋正二郎の自信にはゆるがぬものがありました。タイヤ部の分離独立の前後、正二郎は三井財閥の総帥である三井合名会社理事長團琢磨氏を訪ねた際、「自動車タイヤは将来有望だから賛成です」と激励されたといいます。
1931年1月18日、新会社設立のための発起人会が日本足袋本社で開催され、この席で社名をタイヤの商標と同じ「ブリッヂストンタイヤ株式会社」とすることと、資本金、役員の構成を決定しています。次いで3月1日創立総会が行われ、正式にブリッヂストンタイヤ株式会社が発足しました。
新会社の資本金は100万円、石橋正二郎と石橋徳次郎の共同出資で、出資割合は正二郎2、徳次郎1としました。本店は日本足袋と同じ、久留米市洗町1番地に置きました。また、創立総会では会社定款を定め、役員選任を行った後、役員会で代表役員を選出。代表取締役社長は石橋正二郎、兄の徳次郎は取締役相談役に就任しました。