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1906~1929年

第1章 当社創業の基盤 - 創業前史

第1章 当社創業の基盤 - 創業前史 1906~1929

第2節 20銭均一 アサヒ足袋の成功

第1話 3つのアイデア

1914年9月「志まや」は更に改革を実行に移し、足袋業界を驚かせました。「20銭均一アサヒ足袋」の発売です。この20銭均一アサヒ足袋には新しい三つのアイディアが込められていました。
一つ目は、「均一価格制」。1913年に上京した正二郎はたまたま乗った市電で、乗車賃がどこまで乗っても5銭均一であることにヒントを得て均一価格制を着想したのです。
当時の足袋の値段といえば、品種や文数(足袋のサイズの単位。1文は約2.4cm)の大小に応じて小刻みな値段の差があり、製造業者も卸商も小売店も値段表といちいち見比べてみないと取引ができないほど複雑なものだったのです。正二郎は、均一価格制で流通過程の単純化、合理化を図るべきと考えました。
二つ目は、「20銭」という当時常識からかけ離れた安値にしたこと。当時9文3分(約22.3cm)の足袋は28銭5厘、10文(約24cm)は30銭したのです。もうけを二割見込むことも常識でしたし、広告その他の経費も多くかかっていました。「志まや」は生産の効率化を徹底させて原価を最小限度に切下げたうえで、20銭という安い均一価格を打ち出したのです。
三つ目は、革新的な均一価格で発売するには「新しい名前」にしたいという理由で、祖父の時代から続いた屋号「志まや」という古風なブランドを「アサヒ」に代えて商品イメージを一新したことです。すでに市場に出回っていた類似ブランド「朝日」「あさひ」などは各地に店員を派遣して商標権を買い取り、「波にアサヒ」の新しいマークを使用して「アサヒ」ブランドを確立しました。

第2話 アサヒ足袋の発展と新工場建設

20銭均一アサヒ足袋は、便利さと安値で一般の販売店はもとより、九州の炭鉱、製鉄会社、造船所など広く市場に歓迎されました。1914年というと7月に第一次世界大戦が勃発し、日本も8月にドイツ・オーストリアに宣戦布告をしたので、日本経済はなかば恐慌状態となっており、同業者の多くは不景気にあえいでいました。それにもかかわらず「志まや」だけは注文に追われる状況だったのです。
このように均一性が好評だったのに、他社がすぐに真似てこなかったのは幸運でした。
この間、同業者は均一価格では大きな文数のものは売れても小さな文数のものは売れ残るから損であろうと判断し、アサヒ足袋は粗悪品であると非難までし均一価格の販売には批判的でした。しかし消費者は均一価格制を支持したので、やがて他社もこの均一価格に切り替えざるを得ない状況となり、次第に業界全体に均一価格制は定着していきました。
この間先発の「アサヒ足袋」は独走を続け業績を伸ばしました。工場の拡張、大量生産による増産効果コストダウンで資産を倍増し、資金的な余裕もできてきました。
均一価格制による売上げ増加に対応した生産能力を強化するために、新工場建設に着手、1916年筑後川のほとり、洗町の官有地の払い下げを受け、1917年秋着工、翌年8月に新工場が完成しました。ここは久留米駅に近いことから輸送の便に恵まれ、景観にも優れるため広告宣伝にも役に立つという利点が考慮されました。ブリヂストンの久留米工場は後年同工場の隣接地に建設されたものです。
1913年の販売高60万足が、1918年には300万足と五倍にまで増加しました。
このようにして「志まや」が業界の一流会社と肩を並べる基礎が作られたのです。17歳で「志まや」を引き継いでから12年、足袋専業化を実行してから11年、正二郎29歳のときでした。

第3話 法人組織に移行「日本足袋社」を設立

「アサヒ足袋」製造販売の拡大とともに、経済合理性や税制面の有利性を考慮し、法人組織に移行することが必要と感じられるようになりました。正二郎は兄の徳次郎とともに、1918年6月「日本足袋株式会社」を設立、徳次郎が社長に、正二郎が専務取締役に就任。資本金100万円、企業規模から見ると業界のリーダー格になっていました。
法人化後も正二郎は中央志向を持ち続け、1920年に大阪と東京に支店を開設。大市場に拠点を設けることにより新販路の開拓に着手しました。
日本足袋は創立直後、大戦後の反動恐慌に遭遇しました。1919年ベルサイユ条約が結ばれると翌1920年には物価が暴落し倒産が相次ぎました。日本足袋社も取引先の倒産などから創業以来初めての欠損15万円を計上するという目に遭いました。しかし、正二郎が事前に「大戦によるブームの退潮時期を予知していた」ことと、原料仕入先の大阪田附商店からの助言に基づき1918年のうちに原料在庫を売り払っていたため軽微な損害で切り抜けることができました。