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1930~1936年

第2章 創業の経緯と創業期の苦難

第2章 創業の経緯と創業期の苦難 1930~1936

第3節 創立直後の市場開拓と生産体制の確立

第1話 販売活動の理念と組織

当時の展示会
代理店網の形成

ブリッヂストンタイヤ株式会社は1931年の創立とともに、日本足袋タイヤ部の経験を引き継ぎつつ本格的な市場開拓活動を開始しました。
市場開拓活動の中心は新たなタイヤ販売代理店を獲得することでしたが、後発の当社には、大手タイヤ小売店に割り込む余地はほとんどありませんでした。そこで当社は、タイヤ修理店、中小のタイヤ小売店、日本足袋代理店を対象に代理店網を形成していきました。
1932年には代理店網が全国に形成されるまでになりましたが、その多くが日本足袋代理店であり、当社創立期の市場開拓活動は日本足袋の流通チャネルを活用していたといえます。

大阪木山商店タイヤ部による宣伝販売(1931年)
当時のタイヤ代理店
品質責任保証制の採用

タイヤ販売に当たっては、消費者に対する誠意のこもったサービスを理念として掲げ、製品の故障に際しては無料で新品と取り替えるという徹底した品質責任保証制を採用しました。
自動車タイヤは人間の安全にかかわる製品です。商標に対する信用が売れ行きに大きく影響します。後発の当社が先行するライバル各社と対等に競うためには、信用が重要な意味を持つことになるのです。損失を覚悟して大胆な品質責任保証制を採用した理由はそこにありました。
タイヤに不具合があった場合は無料で新品との取り替えに応じる、という当社の誠意に対して、わずかなキズで不良品といって取り替えを要求するケース、故意に破損させて取り替えを要求するケースも多々ありましたが、当社はあくまでも丁寧に応対し、二度目、三度目の取り替えにも応じるなど、無理を承知で消費者サービスに徹しました。
また創立直後はまだまだ技術が未熟だったことや研究が行きわたらぬところが多々あったため、製品の不具合につながり返品を増加させる原因となっていました。創立以来の3年間に返品タイヤは10万本に達しています。これはこの3年間の生産本数42万本に対して、約25%の返品率になり、倉庫は不良品の山となってしまいました。
石橋正二郎は後年、苦難の当時を振り返って、「親しい人たちからは石橋を逆さにした名前をつけて縁起が悪い、名前を改めたがよいと忠告された」と語っています。しかし、当時の取締役林善次は「みるみる返品の山を築いたが、顔色一つ変えず、あくまで品質責任保証制を堅持する不敵な社長の面魂(つらだましい)に頼もしさを覚えながえら、内心すこぶる恐懼(きょうく)した」と回想しています。

第2話 本格生産の開始と技術的苦闘

1931年4月に初めてトラック用タイヤが、続いてバス用タイヤが生産され、種類・サイズの新設拡大により生産本数は増加していきました。しかし、熟練者の不足や工程の不慣れ、また輸入品の模倣ではなく、独自性を出そうとしたことから、返品が絶えませんでした。不具合に対して無料で新品と取り替える責任保証制の採用も返品増加の一因となっていました。
お客様の苦情をめぐっては、製造技術担当者と販売担当者の間で激しい議論が交わされました。製造工場側が「タイヤ破損は使用法にも原因がある。過剰積載のトラックのタイヤが破損するのは規格上当然のことといわねばならない。また路上の石や瓦、釘などによる不可抗力の破損も考えられる。なんでもかんでも『ごもっとも』と引き下がってはわれわれの立つ瀬がない」と訴えると、販売側は「ダンロップ、横浜との競争の中で社品の信用を維持するためには、わずかな不良品でも当社にとって大打撃である」と反論し、製造工場・技術者側の一層の努力を要求して論争するという事態が日常的なこととなっていました。
社長の石橋正二郎、技師の松平以下全技術者が製品の品質改良のために血のにじむような努力を重ねました。改良対象の項目は工程改善、設備の充実、故障の早期発見とし、石橋正二郎は設備充実のための資金投入を惜しみませんでした。
努力が功を奏し目標は着々と達成され、不具合・返品は次第に減少し、1932年1月には商工省から優良国産品の認定を受けました。

第3話 輸出の開始と国内販売体制の充実

1930年頃のバタビア(現インドネシア ジャカルタ)の代理店
街頭での宣伝風景(1932年頃)
シボレーに装着されたタイヤとクック氏(左端、1938年)
輸出の開始

石橋正二郎は、輸入防止の観点から自動車タイヤの国産化を構想したのではなく、輸出によって外貨獲得に貢献することを念願としていました。商標を「ブリッヂストンタイヤ」と英語表記できるものに定めた動機のひとつもそこにありました。1932年、フォード本社の製品品質試験に合格したことは輸出の自信を深める機会となりました。
当社の輸出業務は当初、日本足袋輸出課と三井物産が担当していました。1932年12月には三井物産門司支店社員と当社営業課の社員2名が東南アジア、ニュージーランド、インドに向けて市場調査に出発しています。市場調査と平行して輸出も開始、初年度の1932年中に1万4,000本の自動車タイヤの海外販売に成功しています。

販売体制の充実

販売体制強化のため1933年に東京、大阪などに出張所を設けました。同年8月には販売部を商務部と改称し、日本足袋輸出課で担当していたタイヤ輸出業務を移して海外課とし、営業課を販売、拡張、運輸の3課に再編しました。
自ら輸出できる体制を整えたこの年の輸出は、8万4,000本と大きく実績を伸ばしました。

新車用タイヤ販売

1931年の創立時から新車向けには日本ゼネラルモータース、日本フォード自動車などに売り込みをしていましたが、国内自動車市場の大部分を占めるゼネラルモータースとフォードの新車用タイヤ採用基準の壁は厚く、販売部員は苦心を重ねることになりました。
優良国産品の認定を受けた1932年に米国フォード本社の試験に合格し日本フォード自動車の納入適格品として認められ、さらには日本ゼネラルモータースからも採用される資格を得るなど、当社製タイヤの品質向上を証明できるようになってきました。しかし、フォードとゼネラルモータースから得た新車用タイヤとして採用される資格は、直ちに納入を実現させるものではありませんでした。ところが、販売担当者の必死の働きかけと偶然の出来事が結びつき事態を打開しました。担当者4人がゼネラルモータースへ交渉に行く際、交通事故に遭遇。怪我をしたものの包帯姿のままで訪問し、その熱意に感動したゼネラルモータースは、即、当社の申し出を快諾したのです。
新車用タイヤの販売は、1935年モーティマー・C・クックが嘱託として入社し、ようやく好転していきました。クックは、グッドイヤー極東代表者として三菱商事に在籍し、自動車タイヤの輸入・販売に従事していた米国人です。当社の伸長ぶりを目にし、また時局の推移から日本ではやがて自動車タイヤの輸入は困難になると見越し、当社のために働きたいと入社を申し込んできたのです。クックは第二次世界大戦の開始まで在籍し、日本ゼネラルモータース、日本フォードへの新車用タイヤの納入を担当し大きな実績を上げました。

第4話 久留米工場の建設

建設中の久留米工場に立つ石橋正二郎
竣工した久留米工場

当社創立後、国内市場開拓の苦しい努力は次第に功を奏し、輸出も開始されました。それとともに当社のタイヤ生産量は上昇を続け、1932年に入ると日産1,000本近くに達し、仮工場では間に合わないようになっていきました。
そこで当社は、日本足袋本社に隣接する京町を本工場敷地と定めて用地を買収する計画を進めました。買収が完了したのは1933年初頭で、これに石橋家所有地などを加えて3万6,000平方メートルを久留米工場の敷地としました。
建築事務所に工場の設計を依頼する一方、1932年には技師を欧米に派遣して数多くのタイヤ工場を視察させ、その報告を設計の参考として建築事務所に提供しました。
竣工は1933年12月で、年末には本工場ボイラーの火入れ式を挙行。機械設備の据え付けを急いだ結果、本工場は翌1934年3月には本格的に稼動を開始し、6月に落成式を行いました。

第5話 輸出環境悪化との戦い

当社を含む日本製タイヤの輸出が増大すると、輸出先諸国が国内事情を考慮して輸入障壁を作ってくるようになりました。インド、ニュージーランド、ビルマ(現ミャンマー)、セイロン(現スリランカ)などでは、日本製タイヤに対して厳しい高関税が課されました。
欧米メーカーが現地生産体制を強化したことも、日本製タイヤの輸出に対する圧迫要因となりました。1935年6月、グッドイヤーがオランダ領ジャワ島(現インドネシア)にタイヤ工場の操業を開始すると、現地政府は輸入割当制と高率関税によって日本製タイヤを圧迫し、グッドイヤーに協力するといった状況でした。インドにおいてはダンロップ、ファイアストンがタイヤ工場を建設していました。
このような状況に対して、当社はインド・欧州係をはじめとする4つの係を社内に置くなどして海外販売体制を強化し輸出の伸長に努めました。1936年頃からは、中国以外の市場、特に欧州、アフリカ、中南米向けの輸出を三井物産への委託販売から直接販売する体制や仕組みに切り替えていきました。

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