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1937~1949年

第3章 第二次世界大戦下の経営と戦後経営の基盤

第3章 第二次世界大戦下の経営と戦後経営の基盤 1937~1949

第2節 戦時期の経営

第1話 本社の東京移転と横浜工場の建設

本社をおいた内幸町のビル
東京市京橋区京橋1丁目1番地にあった木造2階建の旧本社社屋(1945年戦災で消失)
1938年当時の横浜工場
本社の東京移転

当社は創立以来、日本足袋と同じ場所の福岡県久留米市洗町1番地に本社を置いていましたが、久留米工場の完成を控えた1934年1月に工場所在地である久留米市京町105番地に本社を移転しました。しかし社長の石橋正二郎は、全国、さらには海外市場を対象とするタイヤ事業の本拠地として久留米は地理的に適当ではないと考え、本社を東京に移す意向を持っていました。その後当社は、1937年5月に東京市麹町区(現千代田区)内幸町に本社を移転することになりました。
その後1939年に東京市京橋区京橋1丁目1番地に用地を購入。戦時下での資材統制の影響を受けて着工が遅れましたが、1941年には建物が完成し、1942年元旦から新事務所で業務を開始することができました。
しかし、1945年5月、空襲によりこの事務所は焼失し、麻布飯倉片町(現六本木)に事務所を移転することになりました。

「日本タイヤ株式会社」への社名変更

戦時中は、英語の使用は制限しようという風潮がありました。当社の社名についても、英語社名を変更せよという軍部の要請により、1942年2月に「日本タイヤ株式会社」と改めています。これにより1951年までの10年間、ブリッヂストンタイヤの社名は使われませんでした。

横浜工場の建設

日本足袋(1937年に日本足袋から日本ゴムに社名変更)の社長でもあった石橋正二郎は、ゴムはき物業界でシェアを拡大するために、京浜地方に新工場を建設することを計画し、1934年11月に神奈川県鎌倉郡川上村柏尾に用地を取得、1936年にゴム靴工場の建設に取りかかりました。しかし、供給過剰を理由とする業界団体からの要請などがあり、この建設は一時見合わせることになります。
その後1938年には、生産実績のない工場では天然ゴムの割り当てを受けることができなくなったため、日本ゴムのゴム靴生産工場の計画は挫折し、当社(当時、日本タイヤ株式会社と社名変更していたブリッヂストンタイヤ)が横浜工場を継承することとなりました。当時、タイヤの需要を満たすだけの生産本数は久留米工場だけで生産することができたため、横浜工場では再生ゴムの製造を行うこととしました。

※再生ゴム:廃物のゴム製品を粉末にし、再び使用できるようにしたゴム。

第2話 戦時統制

戦時期の生産

1938年4月、国家総動員法が公布されました。これは「戦時事変に際し、国防目的のため、国の全力を最も有効に発揮せしめるよう、人的および物的資源を統制運用」しようとするものでした。統制は、直接戦闘に使用する兵器や弾薬にとどまらず、衣服、食料、輸送、燃料、電力など、国民生活に直結する広範囲な分野に及びました。
1939年4月には「自動車用タイヤ・チューブ配給統制規制」が公布され、10月には自転車用についても配給統制が実施されました。
久留米工場は、トラック用タイヤの生産に主力を振り向け、1942年にはその売上金額は自動車用タイヤの91%を占めていました。当社の自動車タイヤの生産額は1941年にピークを迎えましたが、その後は天然ゴム、コード、カーボンなどの原材料不足のため生産が難しくなり、生産額は著しく低下していきました。

疎開の拒否

終戦直前の1945年7月には、軍部より九州を戦場とする本土決戦の観点から日本ゴムと当社久留米工場の本州疎開を要求されました。社長の石橋正二郎がこれを拒否したため、九州軍需管理官から当社の責任者交代を命じられる出来事がありましたが、この問題に決着がつかないまま終戦を迎えることになりました。

戦時体制への対応

自動車タイヤの政府による配給統制は1939年4月から実施され、商工大臣の承認を得た生産数量に応じた天然ゴムが割り当てられることになりました。タイヤメーカー3社の生産量、すなわち天然ゴムの割り当て比率は、日本ダンロップが約42%、横浜護謨が約28%、当社は約30%でスタートしていますが、1940年3月からは3社3等分の比率となりました。
1943年5月に取り決められた地域別出荷協定では、東北部地区を横浜護謨が、中部地区を中央ゴム(現ダンロップ)が、西南部地区を当社が受け持つこととなっていました。製品の公定価格については、1938年の中央物価委員会で、自動車タイヤ主要6サイズの価格が決定されました。

第3話 グッドイヤー社 ジャワ工場の委任経営

軍から経営を委託されたグッドイヤー社のジャワ工場

1942年3月、オランダ領・ジャワ島(現インドネシア)に進出していた日本軍は、グッドイヤー社 ジャワ工場を接収し、同年4月に陸軍省から当社に同工場の経営が委任されました。当社は、同年5月に工場の復旧と運営のため工場長と10名の派遣員を現地に送っています。工場は、動力部門に大きな被害を受けていましたが、製造設備の被害は軽微であったため、8月には工場を通常通りに稼動することが可能となりました。
社長の石橋正二郎は、日本を出発する当社の派遣員に「この戦争は敵が強大国であるから最後の勝利は予測しがたい。もし戦争が不首尾に終わって引き揚げるような場合は、軍は勢いに乗じてどんな命令を下すかも分からないが、工場設備を完全なままにしてグッドイヤーに返すこと」という訓示を与えました。敗戦時、派遣員はこの指示を守り、工場を破壊することなく、経営委任された当時よりも整備の行き届いた状態にしてグッドイヤーの社員に引き渡しました。このことが戦後の石橋正二郎と同社会長のリッチフィールド氏との信頼関係を作り、当社とグッドイヤー社が技術提携を結ぶ契機となりました。