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1949~1960年

第4章 技術革新と量産・量販体制の確立

第4章 技術革新と量産・量販体制の確立 1949~1960

第3節 技術革新と東京工場の建設

第1話 レーヨンタイヤの開発と新パタンU-LUGの誕生

レーヨンタイヤの開発

石橋社長は渡米時、もはや米国ではレーヨンコードが支配的であることを知り、さっそく技術担当者にレーヨンへの切替えに着手するよう指示を出しました。 レーヨンは、綿に比べてコストが40%割安である上、強力で使用量が少なくてすみます。コスト改善と耐久性の向上の両面が期待できることから、石橋社長はレーヨンタイヤの製造に成功することが、商戦に勝ち抜くために絶対必要であると考えました。
試作の後、1951年9月からレーヨンタイヤの本格生産に入っています。しかし、セパレーションの発生など、技術的には不安要素が残っていること、また天然ゴムの価格暴落による経営危機の最中に新製品を出すことは冒険的である、などの理由で量産開始を危険視する意見が社内には強くありました。しかし、石橋社長は初志を貫き、本格生産に踏み切っています。経営危機の中にも拘わらず、その危機そのものを打開する方策としてレーヨンタイヤという新製品を出すことに挑戦したのです。レーヨンタイヤへの転換は、GY社との技術提携とともに当社発展の歴史上、きわめて重要な決断だったといえます。当社は、他社より6ヵ月から1年は早くレーヨンタイヤの本格生産を開始し、これにより優位に立つことができました。

レーヨンタイヤのテスト販売

テスト販売では、先入観なしで使用していただき、その反応を確認するために、レーヨンタイヤであることを伏せて販売することにしました。ただし、綿コード使用タイヤと区別するために内側のゴムが赤色の綿コード使用タイヤに対し、レーヨンコード使用タイヤは黒色にして市場に出しました。
半年もすると、各地より「黒裏タイヤはすばらしい。もっとほしい」という声があがってきました。綿コード使用のタイヤに比べ30~60%も寿命が長かったからです。レーヨンタイヤの需要は爆発的に伸びました。その後、当社は他社に先駆けてレーヨンタイヤに全面移行し、1953年には売上高が100億円を突破し、業界首位に躍り出る最大の原動力となりました。

新パタン「U-LUG」の誕生

レーヨンタイヤへの切換えと同時に、TBタイヤでは新パタンを採用。この新パタンは悪路でも充分牽引力を出せるように設計されたラグ型で、市場の評価は大変高いものでした。1952年、TBタイヤ全サイズにラグ型パタンを採用することとし、正式に「U-LUG(ユー・ラグ)」と命名しました。「U-LUG」は、営業成績に対する貢献はもとより、当社の信頼度の向上にも大きな役割を果たしました。

第2話 ナイロンタイヤの開発

ナイロンタイヤの施策

1953年、石橋社長は米国で、ナイロンコードの利用状況や将来の可能性に関する情報を得、ナイロンタイヤ生産開始の方針を打ち出しました。
当社は、GY社からナイロンコードを入手し、テストを実施。テストを通じて、ナイロンタイヤはレーヨンタイヤに比べて、コードの使用量が少なくてすみ(約60%)、セパレーションやバーストの故障が少なく、耐久力に富み、重荷重や長距離輸送トラックの場合、20~60%も寿命が伸びることが判明しました。

「HTナイロンタイヤ」の発売

1956年、レーヨンタイヤの場合と同様に、ナイロンタイヤであることを伏せたTBタイヤをテスト出荷したところ、これも好評を得ることができました。1959年、「HTナイロンタイヤ」と銘打ってTBナイロンタイヤの本格販売を開始することとなりました。ナイロンタイヤの評判は爆発的に高まり、乗用車用タイヤも早急にナイロンコードに切り替えることとなりました。
当社は、他社に先駆けて開発したナイロンタイヤの好調に支えられながら、モータリゼーションの本格化を迎えることができました。

第3話 東京工場の建設

用地の買収

当社は1955年頃より、タイヤ生産能力の大幅な拡充のため、新工場の建設を模索しはじめました。新工場の立地は、最大のマーケットかつ本社所在地であり、しかも国産車メーカーとの結びつきを強化する上でも東京が望ましいと考えられました。
当社が現在の東京工場敷地(東京都小平市)に関する情報を入手したのは、1957年初頭のことでした。同年調査を開始し、買収を決定。買収交渉は難航したものの4月には第1次売買契約の調印にこぎつけ、5月には農地転用の申請を提出。その後、1958年に整地工事を開始し、1959年、建設工事に着手しました。

第二期工事着工前の東京工場の様子(1960年)
創業者の基本構想に基づく設計

新工場のレイアウトは石橋社長が構想したもので、用地の中央に東西に一直線に伸びる主道路を1本引き、道路の北半分を生産用に、南半分を研究所、社宅などの厚生施設に当てようというものでした。「東京工場といっても、郊外の町で、久留米よりも不便を感じるかもしれない。従業員の家族が不自由なく生活し、主人が安心して働けるようにするためには、福利厚生施設を完備する必要がある」というのが、石橋社長の考え方でした。
工場設計には、さまざまな新しいアイデアを導入しました。工場は平屋建てで、一方から原料が搬入されると、精錬→圧延→成型→加硫→仕上げ→検査という工程が流れ作業方式で処理され、もう一つの出口から製品が搬出されるという仕組みでした。複数階建築のため、流れ作業に適さない久留米工場での反省を踏まえてのアイデアでした。
また、建物は採光と換気のためにとくに天井を高くし、この地域特有の土埃が工場内に入るのを防ぐため、全館にアルミサッシが採用されました。燃料については、当時はまだ石炭時代でしたが、煤煙、騒音、汚水、塵埃などを軽減するために、思い切って重油使用に踏みきることとしました。
1960年1月からの試運転も順調にすすみ、3月には本格生産を開始しました。久留米工場の従業員800名が東京工場に転勤し、最初から順調な生産をあげることができました。