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1949~1960年

第4章 技術革新と量産・量販体制の確立

第4章 技術革新と量産・量販体制の確立 1949~1960

第4節 国内タイヤ販売活動の強化

第1話 自由競争時代への対応と長期販売方針

販売組織の整備と長期販売方針の発表

1950年、自動車タイヤの販売統制が解除され自由競争が復活しましたが、まず手をつけなくてはならなかったのは流通機構の整備でした。
タイヤ業界では一年前から熾烈な特約店獲得運動が展開されていました。当社は、1949年に登録代理店制度を発足させ、その年の年末には122の代理店が系列に名を連ねました。これは、横浜護謨の165店につぐ数字です。1952年には登録代理店の傘下にサブディーラー(特約小売店)を置き、第2次の販売整備が進みました。
石橋社長は、創立25周年にあたる1956年の販売実績を飛躍的に伸ばすよう指示をしました。これを受けて柴本担当常務は、市販用タイヤの重点を小口需要家と自家用車に置く販売方針を打ち出し、これが1960年代、70年代の販売政策の根幹となりました。

第2話 需要の急増と販売体制の強化

1958年頃の直系代理店
代理店の系列化と体質強化

販売網の拡充は、1950年代後半から60年代にかけての重要課題となっていました。1950年代前半までのトラック・バス用(TB)タイヤ主体の販売活動は、支店の販売担当と代理店セールスマンが運輸・バス会社を訪問してタイヤを売り込む形が中心でしたが、小口の、特に乗用車用(PS)タイヤの需要が増えてくると、従来の販売体制では追い付かなくなってきました。大量生産は可能になっていましたが、その膨大な量を売りさばく販売体制は整っていませんでした。
当社は、生産と販売のギャップを埋めるために、販売店の自社系列化政策を採用しました。その一つが当社製品のみを扱う専売店の確保です。他社品併売店では、販売店の意向で販売量が左右されるため、計画的な生産を実現するには専売化を進め販売見込量を正確に把握する必要がありました。
もう一つは、代理店の体質改善です。代理店は小規模企業が多く、戦中戦後の統制経済の影響でメーカーから送られる大量の製品を効率よくさばく問屋機能を失ってしまっていました。
代理店を系列化する際、当社はまず資本参加し、次いで当社の従業員を経営陣の一員として派遣しました。当社が資本金の50%以上を出資した代理店を「販売会社」と呼びましたが、この販売会社は、1956年には6社であったものが1963年には36社に達し、ほぼ全国を網羅することになりました。

ガソリンスタンドの販売チャネル化

自家用車の数が急激に増え始めると、タイヤ販売店の不足が歴然としてきました。
そこで当社は、他社に先駆けてガソリンスタンド(SS)でのタイヤ販売を構想しました。SSは当初タイヤ販売に熱心ではありませんでしたが、石油元売会社はSSでのタイヤ販売を検討し始めていましたので、当社は全元売会社との契約を締結することができました。元売会社はSSでの当社タイヤの販売促進に協力すること、当社はSSに対しタイヤ販売の指導をすることなどが取り決められました。

タイヤ専業店対策

1950年代後半、タイヤの量販を担う中核はタイヤ専業店でした。当社は、専業店の小売店意識を盛り上げ、お客様が入りやすい店舗作りを推進することが重要と考え、1957年から翌年にかけて、他社に先駆けて専業店の店頭に塩化ビニール製の統一デザインの看板を設置しています。これは販売促進のためだけではなく、専業店と当社の結びつきの強化にも大いに役立ちました。

1950年当時のホーロー看板
宣伝活動

看板の設置は、1950年代の宣伝手法の中心でした。
石橋社長は「ホーロー看板を早急に全国県道沿いに掲示せよ」と指令を発しました。「看板部隊」と称する専門チームが全国を巡回し、1953年には通算1万8千枚のホーロー看板を掲示しています。ホーロー看板とは鉄板の表面にガラス質の釉をコーティングし、絵柄を高温で焼き付けた看板のことです。