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1961~1972年

第5章 高度成長とモータリゼーションの中で

第5章 高度成長とモータリゼーションの中で 1961~1972

第4節 ラジアルタイヤの開発と相次ぐ国内工場の建設

第1話 ラジアルタイヤの開発とスチールコードの自給体制

モータリゼーションの本格化とラジアルタイヤの普及

日本のモータリゼーションは1965年頃から本格化し、ラジアルタイヤが急速に普及していきました。当社は早くからラジアルタイヤの開発に力を注いでいたため、他社に先駆けて量産量販体制を整えることができました。ラジアルタイヤは当初、マニア向け商品としてのイメージが強かったのですが、やがて一般ドライバーにも急速に普及。当社のラジアルタイヤ生産量は、発売当初の1967年に7万5千本であったのが、10年後の1977年には440万本に達し、乗用車用タイヤとトラック・バス用タイヤ合計でのラジアル化率は50%近くに達しました。

タイヤ開発の動機

当社のラジアルタイヤ開発の歴史は、1954年に始まったスチールタイヤの研究に遡ります。当時の石橋幹一郎副社長は、東南アジア出張時にスチールラジアルタイヤの好評に関心を抱き、ミシュランのセミ・メタリックラジアルタイヤを購入して帰国しました。技術陣は、このタイヤの発熱・耐久ドラム試験、破壊試験、解剖試験を実施する一方、海外情報を収集し、スチールタイヤが優れた特徴を持つことを確認しました。
1955年、スチールタイヤの本格的な研究を開始。当初は、バイアス構造のスチールタイヤを製造しました。1956年には、国産第1号のバイアス構造のスチールタイヤを社内トラック便に装着し実車テストを行っています。その後、中近東、東南アジアにも持って行き、過酷な使用条件下で実地試験を繰り返しました。
その結果、スチールコードの特性を生かすためには、バイアスタイヤよりもラジアルタイヤの方が適していると考えられたため、研究開発の重点はスチールラジアルタイヤに置かれるようになりました。

第1号ブリヂストンTBRタイヤ「STEEL RIB」
トラック・バス用ラジアルタイヤ(TBR)の開発

当社は1962年、日本最初のスチールラジアルタイヤ「STEEL RIB」を発表しています。しかし、大量需要に応えるためには、量産方式の確立や設備の開発、スチールコードの供給確保、評価試験法の確立など、解決すべき問題は山積みでした。技術陣は、構造設計、材料設計、製造設計の向上を目指しこの問題に取り組みました。世界的にみても、TBR(トラック・バス用ラジアルタイヤ)の使用条件は高速・重荷重の方向に向かっていましたので、当社はベルト、カーカスともにスチールコードを使用するオールスチールで進むべきと判断しました。
1970年、「V-STEEL RIB」、「V-STEEL MIX」を発売し、市場で一応の評価を得ることができましたが、TBRには故障のメカニズムを解析し、どのような特性の材料を、どのように組み合わせればよいのかを解明する技術がさらに必要でした。1970年、「SR(スチールラジアルの意)委員会」を社内に設置し研究を進めました。その研究成果として、新技術を結集して1973年に発売した「V-STEEL RIB2」、1974年に発売した「V-STEEL LUG2」では、接着に起因する故障が激減しました。

乗用車用ラジアルタイヤ(PSR)の開発

当社は1957年にPSR(乗用車用ラジアルタイヤ)の試作と試験を開始しましたが、「寿命は長いが、路面でのショックが大きく、ハンドルの切れもよすぎて、総じて乗心地が悪い」という評価のもと、「ラジアルタイヤは日本では時期尚早」と判断し、1960年に開発を中断しました。
1963年になると、欧州での急速な普及に触発されて開発を再開しています。スチールベルトを使用するタイプとテキスタイルベルトを使用するタイプを同時に開発する方針で進め、1964年に国産第1号となるテキスタイルラジアル「RT-P」、スチールラジアル「RT-M」を開発しました。テスト結果は、乗心地においても、ベルト部の故障の少なさでもテキスタイルラジアルが優れていたため、その後は開発の重点をテキスタイルラジアルに絞ることになりました。
ラジアルタイヤの優秀性に注目した自動車メーカーの求めに応じて、「RD-01」を試作納入しましたが、ユニフォミティ不良からくる発進時のふらつき現象が発生し、厳しい評価を受けることになりました。その後、ユニフォミティレベルを改良した「RD-10」は1967年に発売され、これはユーザーから高い評価を受けることができました。
1971年には斬新なブロックパタンを持つテキスタイルラジアル「RD-201」を発売し、これは国内でブームを呼び、海外でも好評を博しました。しかし、海外ではスチールラジアルが主流となりつつあったため、「RD-170V」などのスチールラジアルも開発を進めました。また、急速に進んでいた偏平化に対応して、偏平率70の「RD-102」も開発しています。
また、世界で最大の難関といわれるダイムラー・ベンツ社の承認試験にも挑戦。同社の試験では、操縦安定性、振動乗心地、高速耐久性などに加えて、欧州独特の線路・轍乗越条件がテストされました。設計、材料、製造技術が一体となって開発に取り組んだ結果、「RD-11B」、続いて「RD-201VF」がダイムラー・ベンツ社の承認試験に合格しました。

スチールコード自給体制の確立

当時、唯一のスチールコード供給源はベルギー・ベカルト社でしたが、ベカルト製品の輸入に依存していたのではタイヤの品質、生産量、コストを満足なものにすることはできないと考えられました。
そこで当社は、ベカルト社と提携交渉を開始しましたが、同社は技術供与ではなく共同事業を希望したため、ベカルト社と当社は1970年、ブリヂストン・ベカルト・スチール・コード社を設立、出資比率は当社が51%、ベカルト社が49%でした。同社は黒磯市(現 那須塩原市)に栃木工場(現 黒磯工場)を建設し、1971年に操業を開始しています。

第2話 ラジアルタイヤ生産能力の拡充と3R工場の建設

ラジアルタイヤの量産は久留米工場で行うこととし、久留米工場に第3工場を建設し、1967年には量産を開始しました。しかし、ラジアルタイヤの普及速度は予測を超え、1969年から急遽、彦根工場でもPSRの生産を開始することになりました。
その後、ラジアルタイヤの生産を拡充するため、鳥栖工場と栃木工場をそれぞれPSR、TBRの専門工場として建設し、鳥栖工場では1970年、栃木工場では1971年に本格生産を開始しました。また、建設車両用タイヤ(OR)専門の下関工場も建設。当社はこの3品種を戦略商品と位置付け、鳥栖、栃木、下関の3つの専門工場を「3R工場」と総称しました。

第3話 甘木、防府工場の建設決定とドルショックによる延期

甘木工場と防府工場の建設は、1971年8月のドルショックにより計画を一時中断、延期しましたが、甘木工場は1973年に、防府工場は1977年に本格的な生産を開始しています。