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1961~1972年

第5章 高度成長とモータリゼーションの中で

第5章 高度成長とモータリゼーションの中で 1961~1972

第8節 多角化の推進と見直し

第1話 ウレタンフォーム事業の拡大

エバーライトは1960年の生産販売開始以来、需要は拡大しましたが、競合メーカーの続出により順調な販売とは言えませんでした。課題は、エバーライトを用途に応じて裁断加工するための加工会社を設立すること、新たな用途を開発し需要を開拓することと考えられました。
そこで当社は、化学薬品会社を母体に、全国に加工会社をスタートさせました。 エバーライトの用途は当初、マットレス、椅子などのクッション材に限られていましたが、当社ではレインコート、スポーツコート、防寒具などの衣料用への活用を図りました。フィルター機能を持たせた「スコットフォーム」は、衣料用、冷房機や電気掃除機のフィルター、化粧用パフなどに使われました。1965年にはいち早く難燃性ウレタンフォームの研究にも着手し、その後多くの関連商品を開発しました。
1962年には硬質エバーライトの生産を開始しました。用途は断熱材で、薄い板物としての利用のほか、発泡させて狭い空間に注入して断熱効果を発揮させることも可能なものでした。当社は、電気冷蔵庫やプレハブ用パネルの断熱材としての用途開拓に力を注ぎました。冷凍倉庫、保冷庫、LPGタンカー、新幹線車両の断熱材にも適することがわかりましたが、現場での発泡技術を確立するまでには多くの時間を要しました。

第2話 工業用品の販売伸長と生産拠点の拡充

コンベヤベルト
国内流通機構の整備と輸出の拡大

当社は1960年代、多くの工業用品の新製品を開発し市場に送り出しましたが、販売は既存の問屋ルートで行っていたため、販路拡張に制約を受けました。そのため、当社は主要地区に全額出資の販売会社を設立し、独自の流通機構の確立につとめました。 輸出も伸長し、1965年以前の工業用品輸出は、海外部のタイヤ販売担当課が手がけ、取扱い製品は、コンベヤベルト、綿花消毒用スプレーホースなどでした。
1966年には工業用品輸出の専門部署を新設し、輸出はいよいよ活発化しました。エネルギーの主役が石炭から石油に切り替わると、輸出品目も石炭用コンベヤベルトからタンカー接岸用の大型防舷材へと移行していきました。

ブリヂストン・インペリアル・イーストマンの設立

1965年、当社は米国のインペリアル・イーストマン社と技術援助契約を結び、ブリヂストン・インペリアル・イーストマン(現ブリヂストン・フローテック)を設立しました。新会社は、工場を横浜工場内に設置し、インペリアル・イーストマン社の技術で口金具を製造、当社より購入するホース本体に取りつける作業を開始しました。その後当社は1981年に同社を全額出資子会社としています。

熊本工場の建設

1970年、当社は編上ホース製造を目的として熊本ビーエスゴムを設立し、1971年に熊本県玉名市の新工場で生産を開始しました。しかし、編上ホース専門工場では採算面で困難が予想されたため、工業用品の総合工場として再出発することとし、直接傘下に吸収することにしました。

ブリヂストン防振ゴムの設立

1970年、新タイプのゴムブッシュを自動車メーカーに売り込むことを目的に、ゴムブッシュの進んだ技術を持つ米国クレバイト社と提携して、ブリヂストン・クレバイトを設立しました。静岡県大浜町の新工場で生産を開始しましたが、クレバイトタイプのゴムブッシュの需要は伸びず、合弁の意味が薄れたため、1974年に合弁を解消、ブリヂストン防振ゴムと社名を変更しました。同社は1990年、社名をブリヂストンエラステックと変更しています。

第3話 ゴルフボールとゴルフ用品事業への進出

ゴルフボールの新商品と販売会社の設立

日本ダンロップが、輸入品であった「ダンロップ65」を1958年に、「マックスフライ」を1964年に国産化したことにより、当社とダンロップのゴルフボールのシェアは逆転しました。これに対し当社は1963年に「イーグル」、1965年に「スーパーイーグル」などの新商品を発売しましたが、高級ボールの分野では「マックスフライ」が絶対的な強みを持っていました。
販売面では、当社のゴルフボール代理店は64社あり、市場混乱の原因になっていました。それを1968年に49社にしぼり、更に1969年末から全国に販売会社を設立してチャネル整備と拡売に乗り出しました。

スポーツ用品事業への進出

1972年、傘下にスポルディング社を持つ米国クエスター社と合弁契約とゴルフクラブ製造の技術援助契約を締結し、折半出資によるブリヂストン・スポルディングを設立、スポーツ用品事業に進出しました。1973年、当社はゴルフボールとゴルフ関連用品販売事業を譲渡しましたが、クエスター社との間に経営に関する考え方のギャップが生じたため、1977年には合弁を解消し、ブリヂストン・スポルディングは当社100%出資のブリヂストンスポーツとして再出発することとなりました。

第4話 オートバイ事業からの撤退

BSモペットの不評

1950年代後半、50cc以下の小型補助エンジン付自転車の販売は125cc以下の大型エンジンバイクに押され、伸び悩みました。そこで石橋社長はヨーロッパで人気のあったモペットの製造販売への転進を検討しました。試作は富士精密工業が担当しましたが、同社も当社もBSモーターバイクのモデルにこだわり、完成車よりも補助エンジン方式に重点を置いた結果、モペットに全力を注いだライバルに遅れをとることとなりました。中でも本田技研の「スーパーカブ」は驚異的性能でモペット時代を決定的にしました。
富士精密は1958年、ライバルに遅れてモペット「チャンピオンI型」を発表。生産は同社が、販売は当社が担当しました。しかし、スタイルの不人気などが原因で、1960年には生産・販売を中止し、スタートからつまずく結果となりました。 1959年、富士精密は自動車生産に専念するためにモペットから撤退し、ブリヂストン自転車がモペット生産を担当することとなりました。
ブリヂストン自転車は、改善モデルを順次発売していきましたが、参入が遅れたことと参入時の商品イメージの影響が後を引き、1966年のブリヂストンのシェアは3%に過ぎないものでした。

撤退の決断

首脳幹部のなかでは、グループの経営戦略全体を考え、石橋正二郎会長にオートバイ事業からの撤退を強く進言し、決断を促す声が高まりました。この結果、1966年、当社はオートバイの国内販売を中止、1971年には輸出も停止し、オートバイ事業に終止符を打ちました。

第5話 液化ガス事業への進出と撤退

1954年に米国のユニオン ストックヤード アンド トランシット社は、石油原産地で排出される未利用の天然ガスを冷凍液化し、安い運賃で大量に遠隔地まで海上輸送する技術を開発しました。石橋社長は、1954年、同社関係者と会談し、技術調査を経てLPG(液化石油ガス)輸入販売事業への進出を決断しました。
1960年、当社の全額出資でブリヂストン液化ガスを創立し、石橋正二郎が社長に就任しました。同社は、ブリティッシュ・ペトロリアム社から液化石油ガスの供給を受ける契約を結び、世界最初のLPG専用低温タンカー「ブリヂストン丸」(2万トン)が1961年に進水式をあげ、1962年にクウェートに向けて出航しました。同年、ブリヂストン丸の帰港と同時期に川崎LPG基地が完成し、LPGの出荷を開始しました。
1966年の増資に際しては、三井物産に50%の出資を求め、経営体質の強化を図りました。
これは、LPGが当初意図した合成ゴム原料ではなく、燃料用、化学原料として供給されるようになったため、エネルギー取引に強い三井物産との提携が有利と考えられたからでした。最終的には、1991年に当社は株式を全て三井物産に譲渡し、液化ガス事業から撤退しました。

第6話 プリンス自動車と日産自動車の合併

プリンス1号車

プリンス自動車設立の発端は、1949年石橋正二郎が東京電気自動車に出資したことに始まります。同社は、立川飛行機の従業員が戦後、自動車製造業への転換のために創立した会社で、電気自動車の製造を計画していました。(1949年、たま電気自動車と改名) その後、ガソリン自動車への転換を余儀なくされ、富士精密工業にガソリンエンジンの製作を依頼しました。富士精密は、航空機メーカーの雄、中島飛行機の流れを組む会社でした。
石橋正二郎は、将来の富士・たま両社の合併を考え、1951年、富士精密の株を買収し、会長に就任しました。同年、富士精密は、自動車用ガソリンエンジン(1500cc、45馬力)を完成、たま電気自動車はこのエンジンを搭載したトラック第1号を製作し、同時に社名をたま自動車に改めました。
1952年には乗用車第1号を完成させ、販売に踏み切りました。新車名は、この年に立太子礼を行った皇太子を記念し「プリンス」と命名され、エンジン性能の良さとデザインのスマートさで市場をにぎわせました。同年、社名をプリンス自動車工業に改めました。
プリンス自動車と富士精密は、車体とエンジンの総合生産を目指して1954年に合併、富士精密を存続会社としてプリンス自動車工業を吸収合併する形としました。1957年にプリンス・スカイライン、1959年にはプリンス・グロリアを発売し、1961年にはプリンス自動車工業と改称しました。
1960年代半ば、資本自由化実施を控えて国際競争の激化を予見した通産省は、業界再編成を推進し、自動車産業においては日産自動車とプリンス自動車の合併を模索しました。石橋正二郎は、かねてから業界再編成の必要性を痛感していたため、1965年に両社の合併を決意し、1966年両社は合併を完了しました。

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